市街地の拡大と緑地の減少

 日本は江戸時代までは自然が残っていたという印象を持っている人は多いかと思いますが、少なくとも武蔵野台地に於いては原生の自然が残っていたのではなく、人が自然と共生するシステムを構築していたということを前項までお話しさせていただきました。

 元々照葉樹林に覆われていた武蔵野台地は人によって切り開かれながらも、クヌギやコナラを中心とした平地林を人々は育み、それらと共生する生活スタイルの中で農業を行うことで、河川の水文環境とも共存していたのが江戸時代以前の人々の暮らしだったと言えると思います。


 明治時代となり、近代産業化の中で日本各地で公害問題が発生するようになりますが、少なくとも石神井川流域に於いてはまだ市街化は進まず、むしろ農業生産が盛んになって田柄用水が開削されるなど、人と水が共存する環境はまだ保たれていたようです。


 ところが昭和に入ると武蔵野台地の市街化が一気に進行します。

 石神井川流域の市街化が進んだのは「ふれあい石神井川」によればまず関東大震災がきっかけだったといいます。関東大震災によって家屋を失った人々が被害の少なかった石神井川流域に移動してきたというのです。

 そして戦後、昭和30年代から始まる高度経済成長は、人口の爆発と都市部への人口の集中による市街地の拡大を引き起こしました。

 「ふれあい石神井川(石神井川流域環境協議会)」には昭和30年代初期と昭和60年代初期の既開発地と自然地の分布が掲載されています。なお、実際には「自然地」と言ってもこれは畑や水田等人が管理しているところも含まれているようなので、「自然地」=「アスファルトやコンクリートで覆われていないところ」、「既開発地」=「アスファルトやコンクリートで覆われているところ」と考えて良いでしょう。

 それによると、昭和30年代初期は既開発地:自然地=37.1:62.9だったのが、昭和60年代は既開発地:自然地=83.9:16.1になっています。30年間で爆発的に市街地が拡大したのがよく分かる数字です。


 この結果、武蔵野台地の風景が激変するとともに、人と自然の関係、河川環境、湧水機構に様々な変化がもたらされました。

 次節からこれを4つの項目に分けて紹介していこうと思います。


(リンク)写真で見る練馬の今昔「石神井川・湿化味橋」

     昭和30年も田園風景が広がっていたことが分かります。

(図)石神井川流域の既開発地と自然地の分布 (荒川水系石神井川河川整備計画 より)

武蔵野台地の湧き水復活を考える

外環道の開通工事を控え、 改めてかつて豊富な湧水量を誇った三宝寺池をはじめとした 武蔵野三大泉(井の頭池・善福寺池)の湧き水復活について、 石神井公園を愛する一般市民の立場から考えたいと思います!

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