三宝寺池の湧水復活を考える会

記事一覧(12)

市街地の拡大と緑地の減少

 日本は江戸時代までは自然が残っていたという印象を持っている人は多いかと思いますが、少なくとも武蔵野台地に於いては原生の自然が残っていたのではなく、人が自然と共生するシステムを構築していたということを前項までお話しさせていただきました。 元々照葉樹林に覆われていた武蔵野台地は人によって切り開かれながらも、クヌギやコナラを中心とした平地林を人々は育み、それらと共生する生活スタイルの中で農業を行うことで、河川の水文環境とも共存していたのが江戸時代以前の人々の暮らしだったと言えると思います。 明治時代となり、近代産業化の中で日本各地で公害問題が発生するようになりますが、少なくとも石神井川流域に於いてはまだ市街化は進まず、むしろ農業生産が盛んになって田柄用水が開削されるなど、人と水が共存する環境はまだ保たれていたようです。 ところが昭和に入ると武蔵野台地の市街化が一気に進行します。 石神井川流域の市街化が進んだのは「ふれあい石神井川」によればまず関東大震災がきっかけだったといいます。関東大震災によって家屋を失った人々が被害の少なかった石神井川流域に移動してきたというのです。 そして戦後、昭和30年代から始まる高度経済成長は、人口の爆発と都市部への人口の集中による市街地の拡大を引き起こしました。 「ふれあい石神井川(石神井川流域環境協議会)」には昭和30年代初期と昭和60年代初期の既開発地と自然地の分布が掲載されています。なお、実際には「自然地」と言ってもこれは畑や水田等人が管理しているところも含まれているようなので、「自然地」=「アスファルトやコンクリートで覆われていないところ」、「既開発地」=「アスファルトやコンクリートで覆われているところ」と考えて良いでしょう。 それによると、昭和30年代初期は既開発地:自然地=37.1:62.9だったのが、昭和60年代は既開発地:自然地=83.9:16.1になっています。30年間で爆発的に市街地が拡大したのがよく分かる数字です。 この結果、武蔵野台地の風景が激変するとともに、人と自然の関係、河川環境、湧水機構に様々な変化がもたらされました。 次節からこれを4つの項目に分けて紹介していこうと思います。(リンク)写真で見る練馬の今昔「石神井川・湿化味橋」     昭和30年も田園風景が広がっていたことが分かります。

神明の森みつ池のこと。

 以前よりその存在を噂で聞いていた神明の森みつ池にいってきました! ・・・正確には、仕事中に前を通った程度なのですが、湧き水と森からなる非常に印象深い場所でした。 世田谷区は南部に国分寺崖線(こくぶんじがいせん)という大きな崖が存在します。これは多摩川の浸食作用によって形成されたもので、武蔵野台地上の中小河川に沿って形成された谷はせいぜい高低差が数メートルから10メートル程度なのに対し、国分寺崖線はその湧水を集めて流れる野川に沿って20メートル以上ある非常に規模の大きな崖が連なります。 そして、崖だったことで宅地化がすぐには行われず、斜面林が残っているところが多いのです。 上流部・中流部にはお鷹の道や滄浪泉園、野川公園などがありますが、下流部にあたる世田谷区内で湧水と斜面林が一体となって残っているが神明の森みつ池緑地です。 世田谷トラストまちづくりが管理をするこの緑地は年数回の観察会のときしか一般の人が立ち入ることはできず、まさに都市に秘境として存在し続ける貴重な場所です。 私もコナラ、クヌギ、マツなど武蔵野台地の平地林(雑木林)を構成する種を中心に、危惧種やゲンジボタルが生息するこの森を柵の外から観察していましたが、そこで同時に驚くべき看板を目にすることになりました。 外環道の計画にざっとは目を通していたのですが、この神明の森みつ池が外環道計画の中に入っている事は見落としていました。 外環道は確かに以前から計画されていたものであり、この地域が外環道が建設される前提であったことは事実です。 しかし、時代は変わりました。宅地化され自然のほとんどが失われた都市部において、神明の森みつ池は都市部に残る貴重な自然であり秘境です。 外環道の計画そのものに、私個人として反対することはしませんし、工事の際は環境にも配慮してくださることと信じていますが、土木工事がこれまで数多の自然環境に影響を与えてきた事は事実です。 武蔵野台地の自然を愛する人、地元の自然に愛着を感じる人は、この計画に対し、よりレベルの高い環境への配慮、土木工学目線ではなく、環境工学的な考え方ではなく、生物学、地理学視点を包括した高いレベルでの環境との共存を求めていかなければならないと思います。

平地林がはぐくんだ江戸野菜

 江戸時代、武蔵野台地での土地活用を考える上で重要な出来事が起きます。それは江戸幕府の開幕です。 江戸幕府の開幕はそれまで牧としての利用が主だった武蔵野台地上においても、江戸の近郊の農村としての食料生産が求められるようになったということを意味します。 武蔵野台地上での農業は前述した通り、中世までは草木灰や刈敷、糞尿や家畜糞によって土づくりをした麦中心の二毛作でしたが、江戸時代中期以降は森林の落ち葉を利用するようになりました。森林で落ち葉をかき集め、腐葉土を作り、畑の肥料として使ったのです。 その為、江戸時代は落ち葉の供給源として、平地林の存在がより一層重要視されることになります。この時代の武蔵野台地上の田園風景とは決して畑だけが広がっているのではなく、畑と林が短冊状に連なっており、人々はその林のことを「雑木林」ではなく「ヤマ」と呼んでいたそうです。それだけ武蔵野台地の人々にとって林が恵みを与えてくれる重要な存在であったということでしょう。 江戸時代、江戸近郊では「江戸野菜」と呼ばれる野菜が収穫されていました。 主な江戸野菜としては 滝野川牛蒡(北区)谷中生姜(台東区)三河島菜(荒川区)、のらぼう菜(多摩)、品川カブ(品川区)、豊島枝成胡瓜(豊島区)・・・ などがあり、練馬には練馬大根がありました。 練馬大根はいわゆる白首大根の一つで、最初から一部が地上から顔を出している青首大根と違ってすべて地中に埋まっている為、収穫が重労働になってしまい、生産量は減っているものの、現在も一部の農家で生産されています。 個人的には練馬大根のべったら漬けはとても美味しく、大好物です! これらの江戸野菜の生産は武蔵野台地の森林があってのものであり、そしてその森林は地下水の涵養にも機能していたのです。

第29回照姫まつり!!【石神井公園が一年で一番盛り上がる日!】

 今年も、石神井公園にて照姫まつりが盛大に開催されました! 照姫まつりは三宝寺池の南方、石神井川に挟まれた台地の上にあった「石神井城」に伝わる昔話を題材にしたお祭りです。 落城の際に「金の乗鞍」とともに白馬に乗って三宝寺池に入水した当主の豊島泰経、その後を追って池に身を投げた照姫、そして泰経の奥方の三方役は区民の一般公募からオーディションで選ばれ、華やかな時代行列とともに公園から駅前までを行進します。 まさに、練馬区の練馬区民による、練馬区民のためのお祭りなのです! なお、現在の研究では照姫は実在しなかった人物と言われており、豊島泰経も石神井城落城後に平塚城で再び挙兵したという記録があります。また、お祭りには豊島氏とは全く関係の無い、信州真田の甲冑隊や陣太鼓も練馬区と上田市が友好都市のためここ数年参加しています。 このあたりに歴史に詳しい方で引っ掛かる方もいるようなのですが、個人的には地元の歴史と自然をテーマにこれだけの人が賑わい、その象徴として照姫がいて、同じように歴史で町おこしをしている町や人の輪が広がるのは素晴らしいことだと思います。  また祭りのさなか、三宝寺池側にある子供たちの遊び場ひょうたん池では、ザリガニ釣りに熱中する子供たちであふれていました。 コンクリート護岸だった石神井池も水辺再生工事が終わって水際に水生植物が増え、より一層自然と歴史が残る石神井公園。 これからもこのお祭りを象徴として、自然と歴史の魅力が詰まった場所であってほしいですね!写真 第29回照姫まつりの照姫様   今年の照姫もとてもキュートでしたね!

中世の武蔵野台地

 武蔵野台地をはじめとした関東地方はかつて板東と言われ、近世に江戸幕府が開かれるまでは都の人々にとっては辺境の田舎町でした。 それは、都があった奈良や京都から遠く離れていたというだけでなく、関東平野を構成するの武蔵野台地をはじめた台地が農耕に適さなかったからです。 それは台地は高台である為、低地を流れる河川から水を得にくかったこと、武蔵野台地のローム層の表層を覆う「黒ボク土」は栄養分の低い酸性の土壌だったことが理由でした。 その為、武蔵野台地は農耕よりもむしろ「牧」が置かれて放牧地としての利用が中心でした。 その一方で焼き畑農業で森林を開き、植物の灰を肥料として農耕を始め、その耕地を維持するために芝や草をすき込んだりして有機質肥料を耕地に投入することで生産性を維持していました。 こうした森林以外に草原が広がる環境が「板東武者」と呼ばれる屈強な武士団を育み、武士は軍事勢力となるだけでなく土地の開発領主として土地の開拓者となります。 石神井川流域を領地としたのは、豊島氏でした。豊島氏は王子方面から石神井川上流へと勢力を伸ばし、三宝寺池の南岸に石神井城という居城を築きました。これは防御に適していたという以上に、石神井川最大の水源である三宝寺池をおさえる事で、豊島氏が石神井川の水利権を握ったとも言われています。 なお、石神井川流域を長きにわたって治め、土地の開発をした豊島氏が滅亡後も地元の人々に愛され、地域のお祭りとして照姫まつりというものが石神井では開催されています。 また、鎌倉時代になり鎌倉幕府が開かれると、草木灰、刈敷に加えて人糞尿や厩肥(家畜糞や家畜飼料)を耕地に投入し、麦中心の二毛作が普及するようになりました。その為、それらを得るための森林の存在も重要になり、それを巡る争いも起きるようになったといいます。 このように、中世までの武蔵野台地は、草原と林、そして牧草地が広がる場所でした。

武蔵野台地の本来の姿

 現在この地球上で人の手が一切入っていない場所はほとんどありませんが、「潜在自然植生」とは「人の手が一切」入らない場合その土地はどうなっているかを想定したものです。 それで言うと、武蔵野台地は台地上には常緑広葉樹の森が広がり、川が流れる谷にはヨシなどの水草やハンノキなどが生い茂る湿地帯が広がっていたと推測されています。常緑広葉樹とはカシやシイなど一年を通して青々とした葉をつける森のことで、冬でも葉は落ちず、森の中は常に薄暗いという特徴があります。現在でも人の手が加わらない神社などにはその森が残っているところがあり、人が作った森であっても明治神宮のように100年かけて自然に還った森は常緑広葉樹が広がっています。 『練馬区自然環境調査報告書』には、「練馬区の潜在自然植生は、大部分がシラカシ群生と推定されている。」と、あります。ちなみに石神井周辺では和田稲荷に区内最大のシラカシが御神木として残されており、姫塚の上にそびえているのもシラカシです。 この石神井川流域には縄文時代から人が住みはじめ、流域には石神井川の谷の湧水を求めて作られた遺跡も多く見つかっていますが、本格的に人が自然に手を入れ始めるのは中世以降のことです。(参考)練馬区自然環境調査 ※Ⅱ章p9(写真1枚目)和田稲荷のシラカシ (写真2枚目)姫塚のシラカシ(写真3枚目)常緑樹に覆われた明治神宮の森

火山灰台地の武蔵野台地

台地を形成する関東ローム層 関東ローム層は、いわゆる「赤土」です。これは土に含まれる鉄分が酸化している為に赤くみえるもので、武蔵野台地上ではどの家でも庭を掘れば、赤土を見ることが出来ます。 ちなみにローム層は火山灰でできていると言っても、一気に火山がドッカーンと噴火してできたものではなく、火山周辺の火山灰が風で舞い上がって降下した埃のようなものがほとんどなので、粒の小さな粘土状の土になっています。「埃なんて、そんなに積もるものなの?」と思ってしまいますが、実際現在でも関東地方は火山灰が毎年0.1mm~0.2mm程度堆積しているのだそうです。 この関東ローム層は「武蔵野台地の段丘崖に分布する著名湧水の湧出機構の解明とその保全ならびに環境モニターとしての機能の検討」によると、降水の浸透に都合のいい大きな土の隙間と、降水の保留に都合のいい小さな隙間の両方を持っており、土が十分に湿った状態であれば大きな隙間が昨日して水が素早く地下に浸透するけれども、土が乾いてしまっていると小さな隙間が機能して水を土に貯留しようとするのだそうです。 一般に、関東ローム層は地下への浸透率が高いと言われていますが、乾燥している状態ではそうではないというのは、留意点ですね。

湧水スポット・標高70メートルと50メートル地点

武蔵野台地の下にある砂礫層の正体

扇状地って何だ!? 扇状地という言葉、中学や高校の地理で一度は聞いたことがあるかと思います。山間部を流れた川が平野や盆地に流れ出たところにできる扇形の地形です。 狭い山間部の渓谷を勢いよく流れていた川が開けたところにドバッと出るわけですから、洪水などの度に運んできた土砂もそこへ流し込みます。それを長い年月をかけて繰り返すことで、山側から平野側へ扇形に広がる、堆積した土砂による地形ができあがるわけです。それが扇状地です。 扇状地は運ばれた土砂によって出来た土地なので、小石や礫が多く、水はけが良いのが特徴です。水はけがいいという事は、この扇状地を作った大河川そのものの水も、多くが地下に浸透してしまいます。 浸透した水は一度地下水として地下を流れます。こういった地上の河川と関係が深いものを伏流水といいます。 伏流水は扇状地の端っこで再び地上に姿を表し、川となって流れ出ます。だから、扇状地は水はけが良いのと同時に、末端部は湧き水が多いというのも特徴なのです。 余談ですが、日本の有名な扇状地の一つに滋賀県の安曇川の扇状地があります。ここは、比良山地・丹波高地を抜けたあと、そのまま琵琶湖に注ぐので、河口は三角州と一体となった綺麗な扇型の扇状地となっています。 その扇状地上で安曇川は流量を減らす一方で伏流水が湧水となってあちこちから湧き出し、古い集落には各家屋に川端(かばた)という水場が作られるなど、湧水と共存した文化が育まれています。(リンク)安曇川の三角州・扇状地(写真)針江の川端(かばた)

武蔵野台地の川の分類と石神井川

 東京都の市街地が広がっている場所のほとんどは、荒川と多摩川という大きな川に挟まれた台地の上に広がっています。この台地を武蔵野台地と言います。武蔵野台地は関東平野の一部ではありますが、決して平坦な地形ではなく、石神井川や神田川、白子川、目黒川、野川などの河川が流れ、それぞれが深さ数メートルから10メートル程度、場所によっては20メートルを越える谷を刻んでいます。 それらの川は、「武蔵野台地の段丘崖に分布する著名湧水の湧出機構の解明とその保全ならびに環境モニターとしての機能の検討」という論文によれば、その発達の歴史を基に以下の3つに分けられるとあります。1、現地形対応型河川 現在の台地地形を最初の条件としてスタートしたと考えられる河川。現在の武蔵野台地ができてから、雨水などの浸食によって谷ができ、川が流れたものです。2、古地形対応型河川(扇端湧水を起源とするもの) 現在の台地地形が出来る前、武蔵野台地が青梅市付近から広がる多摩川の扇状地だったときから、その扇状地の末端部から湧き出た湧水によって形成されていた河川。 実は武蔵野台地ができる前から原型が既にできあがっていた河川もあるんですね!3、古地形対応型河川(古多摩川) 扇状地を作った大河川は洪水等の時に何かの拍子で流路を変えることがあります。 かつての多摩川も現在とは別の流路を流れていたことがあり、その流路後を流れている河川。 そして、石神井川は直線化や上流部の暗渠化等により流路が実際より短くなっているものの、武蔵野台地最長・最大級の河川であり、分類的には2の扇端湧水を起源とする古地形対応型河川であるというのです。 地形に詳しい方は「あ~なるほどね!」と思うかもしれませんが、地形に詳しくない方には「台地?扇状地?多摩川が別の流路を流れていた??」と思われる方もいると思います。 そこで、次は多摩川の扇状地について掘り下げていきます。(参考)「武蔵野台地の段丘崖に分布する著名湧水の湧出機構の解明とその保全ならびに環境モニターとしての機能の検討」新藤静夫1993 p6(画像)武蔵野台地の衛星写真 ※wikipediaより引用